東京高等裁判所 昭和32年(う)385号 判決 1960年12月21日
本籍 藤沢市辻堂千九十七番地
住居 同右
無職
正田昭
昭和四年四月十九日生
右の者に対する強盗殺人被告事件について、昭和三十一年十二月一五日東京地方裁判所が言い渡した有罪判決に対し被告人より適法な控訴の申立があつたので当裁判所は次のように判決する。
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は被告人及び弁護人正木亮、同正木捨郎作成の各控訴趣意書記載のとおりであるからこれを引用し、これに対し当裁判所は次のように判断する。
弁護人らの控訴の趣意第一点について
所論は、要するに、被告人は本件犯行当時精神病に罹患して、精神異常にあり、所論心神耗弱の状態にあつたと主張するのである。
よつて考察するに、原審における鑑定人林暲作成の鑑定書及び同鑑定人の原審公判廷における供述によれば、被告人は、原判決の認定する如く、分裂気質というべき傾向が明らかであるが、特に分裂病質という程顕著ではなく、ただ環境的条件による心因反応に陥り易い傾向を有し、本件犯行当時は、失職とこれに伴う愛人杉崎弥生との間の破綻のため、精神は正常状態を失し、ある程度分裂病的な様相を呈していたけれども、それは精神分裂病の発病―被告人がそれ以前にも精神分裂病に罹患したことがあるとの事実はこれを認むべき証拠がない―による症状というよりはむしろ主として心因反応による異常状態と考えられるものであつて、結局、分裂気質の遺伝負因を有する被告人の本来の素質が、当時の環境において発現したものであることが認められ、これに、被告人の検察官に対する各供述調書及び原審公判廷における供述等により認められる本件犯行の動機、態様、犯行後の行動及び犯行の前後に亘る心理、思考の推移、経過、犯行に対する道義的判断を総合して検討すれば、被告人は、本件犯行当時、ことの是非善悪を弁識する能力及びその弁識に従つて行動し得る能力が著しく減退した状態にあつたとは認められないから、心神耗弱の状態にはなかつたものといわなければならない。
しかして、当審における鑑定人吉松脩夫作成の鑑定書及び同鑑定人の当公判廷において供述するところによれば、本件犯行前の一定期間中(愛人杉崎弥生が被告人の友人と肉体関係を持つたことを被告人が知つた昭和二十五年頃及び大学卒業を前にしてたまたま肺結核であることが発見されたため、一流会社への就職も断念せねばならず、徒つて杉崎との結婚も絶望的となつた昭和二十七年秋頃等)に経過した被告人の異常な精神状態には、精神分裂病を疑わしめる点、しかも根拠ある疑といえる点があつた。もしこれを精神分裂病であるとしたならば、犯行当時は分裂病の寬解状態にあつたことになり、心神耗弱の状態にあつたと思料される。しかしながら、犯行前の右精神異常状態は、精神分裂病性反応と見做すことが、最も確からしいと考えられ、この見解に従えば、これら反応性症状の殆んど消退した本件犯行当時においては、心神耗弱に該当する状態にあつたとは認め難いというのであるから、これまた被告人の精神状態に関する前記認定の正当なることを裏書きするものであるといわなければならない。
ところで、所論は、原判決は、被告人の精神状態を、精神病学上の科学的判断とはなんらの関係を持たない犯行の外様のみによつて推断したもので、不当であると主張するのであるが、しかし原判決が、鑑定人林暲の鑑定の結論に立脚し、これを被告人の供述により認められる本件犯行の動機、態様、犯行後の行動及び犯行の前後に亘る心理、思考の推移、経過、犯行に対する道義的判断等とを総合考察して、被告人は犯行当時心神耗弱ではなかつたと認定したものであることは、原判決書を通読し明らかなところであるから右主張は理由がない。
次に所論は、原審鑑定書は、被告人の犯行当時の精神状態を解して、分裂病的症状の一つとされる内閉の特徴として考えられると思うとし、責任能力について、ある程度限定すべきであると考えても全く不合理ではないと主張しているのに、原判決は、かかる科学的判断に対し首肯するに足るなんらの説明をも加えず、ただこれを無視して、被告人は心神耗弱ではないとしたのであるから、採証の法則に違反し不当であるというのである。
しかしながら、原審鑑定書は、その「考察」の部において、本件犯行当時の被告人の精神状態は「……分裂病症状の一つとされる内閉autismusの特徴として考えられるようにも思う」としていて(記録二九七〇丁表)、所論のように断定的な表現にはなつていないばかりでなく、右は、その前後の記載により判明するように、あくまでも観察の一形態を叙説したにとどまり、同鑑定書が、究極において、犯行当時の被告人の精神状態は、環境的、経過的に見て、反応的の要素が多いように思えるので、ある程度分裂病的な様相を呈したけれども、分裂病の発病による症状というよりは、むしろ心因反応による異常状態と考えられると結論するものであることは、同鑑定書の「考察」の部の全体と鑑定主文(単に鑑定となつている)とを通読し明らかなところであるというべく、また、責任能力についても、同鑑定書は、被告人の犯行時における精神状態が心神喪失または心神耗弱の状態にありしや否が鑑定事項として提出されていたにも拘らず(かかる事項が鑑定の対象として適当であるかどうかはおく)、単にその「考察」の部において「……或る程度特殊な反応状態にあつたとすることは相当確実なことであると思われるので、責任能力について或る程度限定すべきであると考えても全く不合理とは思われない」(記録二九七七丁裏)とするだけであつて、これまた極めて消極的で、軽い意義のものに過ぎず、敢えて心神耗弱に該当するとまでなすものでないことは、十分に窺い得るところであるから、原判決に所論のような違法は存しない。
次に所論(控訴の趣意第二点における所論参照)は、原審鑑定書は被告人の本件犯行をもつて突飛性があるとしているにも拘らず、原判決はこれを否定し、突飛性はないとして、全く相反する見解を立てていると主張するのである。
しかしながら、原審鑑定書は、これを通覧するに、被告人の本件犯行をもつて突飛性があるとはいつていないようであり、他方原判決は、本件犯行はその動機形成において突飛性はないと説示しているのであるが、原審鑑定書も、また、本件の動機と結末とを対照して、アンバランスではないとしており、両者は趣旨において相反するものではないから、所論は理由がない。
なお所論は、被告人は、原審鑑定書も指摘する如く、死体をトランクに入れて天井に上げておけば、当分発覚しないと判断したのであるが、かかる死体処理方法は非現実的であるというべく、また、共犯者の選択に当つても危険の有無についての配慮が欠けており、これらによつても被告人が心神耗弱の状態にあつたことが推認されるというのである。
よつて案ずるに、被告人は検察官の取調に際し、また原審公判廷においても、死体を持ち出すことは別に考えておらず、そのまま天井裏に放置しておく積りであつたと供述しているけれども、原審相被告人金現燁、同相川貞治郎が検察官に対しまた原審公判廷において供述するところを総合すれば、被告人としても、死体はトランクに詰めてできるだけ早く、遅くとも二、三日中には、天井裏から持ち出す積りであつたことが窺われ、たとえ持ち出しが遅れるような場合でも、金属性のトランクに詰めて鍵をかけて天井裏に隠しておけば、臭も防げるし、天井裏に通ずるバンド席は、当時は使用しておらず、金が寝泊りするだけだから、発見されることはないと考え、他の二人もこの方法に賛成したものであることが認められる。そして、ともかくも、できるだけ早く且つ確実に死体をトランクに詰めてしまうことに被告人は大いに苦慮し、事件当日、犯行に先き立つて、被告人が前日見定めておいたトランク屋へ実地に金を連れて行つて、ジユラルミン製の大型トランクを見せ、殺害直後にも金に対し、トランク代を手渡したほか、逃げないでトランクを買つて来て死体を詰めておいてくれと申し向け、また、同日午後三時過ぎ藤沢市の止宿先に帰りついた上、それから東京へ戻る相川に、まだトランクを買つていないならそれを買つて来て、あすの朝八時半から九時までの間に死体をトランクに詰めること、午前十一時半頃新橋の喫茶店で待ち合わせることなどしたためた金宛の紙片を、託したほどであり、共犯者の選択についても、相川とは、同人が被告人の行きつけの麻雀屋で手伝をしていた関係で、半年も前からの知合であつて、バーその他で何回となく馳走をしてやり、共に女遊びもし、ある程度面倒をみたとも思つている間柄であり、また金とは僅か一ヵ月足らずの知合ではあつたが、「メツカ」に行くたびにかかさずチツプをはずみ遊廓へ連れ出したりして親しくしていた間柄であり、そして同人らが金銭に不自由している折柄、犯行を頼んだ被告人の親分から沢山金が出るからといつて報酬目当てに使間入りするようにいざないしかも、初めは麻薬を使用することから話を進めたいものであり、そしてもし右両名が大事を打ち明けられて同意しないような場合には、被告人は冗談にことよせて一笑に付してしまう積りであつたというのであるから、前記死体処分の方法は一応筋道が通つていて、通常人をしてこれを了解させるに難くはなく、共犯者の選択に当つても特段配慮が欠けていたとは思われず、少くともこれらをもつて、被告人が心神耗弱の状態にあつたことを推認せしめるにつき有力な資料とすることはできない。所論は採用に由なきところである。
終りに所論は、原判決は、犯行の手段方法に関する計画の緻密さをもつて、被告人が心神耗弱でなかつたことを認定する資料としているが、この点については原審鑑定書は「分裂病の場合にせよ、被告人の如き反応状態の場合にせよ、意識の障害は問題ではなく、主として思考、判断が異常であるかどうかが重点であるから、その行動が相当計画的であるというようなことは、この場合の責任能力を考えるに当つての直接の問題ではない」として、原判決が犯行の計画の緻密さをもつて精神状態を計る尺度としたことに対し全く反対の見解をとつていると主張するのである。
よつて案ずるに、精神障害による責任能力を考えるに当つては、主として思考、判断が異常であるかどうかに重点が置かれるべきであつて、意識の障害の有無従つて犯行が相当計画的であるかどうかというようなことは、責任能力と直接関係を有するものではないとする原審鑑定書の見解は、もとより首肯し得るところであるが、しかしそれは、計画が緻密だからといつて責任能力に欠けるところがないとはなし得ないとするにとどまり、計画の緻密さも、犯人の供述内容、犯行の動機、態様等の諸事情と相まつて、その責任能力の程度を判断するについての一資料となり得ることは当然であり、そして右鑑定書もこれと同一見解に立つものと解せられるから(記録二九〇〇丁裏二行目以下参照)、原判決が計画の緻密さと右記載の如き他の諸事情とを総合して、被告人は心神耗者にあらずとしたのは、もとより正当であるとともに、原審鑑定書の見解に相反するものでないこと明らかである。
その他の原審鑑定書に対する論旨の摘録の事項についても、同鑑定書と原判決の認定との間に、少くとも精神科学的な判断に関する点において、不一致が存するとは考えられない。
以上の次第であるから、原判決には本件犯行当時の被告人の精神状態の認定につき、条理または採証法則違背の廉はなく、ひつきよう、原判決が被告人は心神耗弱の状態ではなかつたと認定したのは正当であり、事実誤認の違法は存しないから、論旨は理由がなく、排斥を免れない。
同第二点について
所論は、原判決は被告人の刑事責任能力を判断するにつき審理不尽であると主張するのである。
よつて考えて見るに、原審鑑定書の見解と原判決の認定との間に、少くとも精神科学的判断に関する点において、不一致が存しないことは、さきに説示したとおりであり、そして原判決は右鑑定書のほか同鑑定人の原審公判廷における供述をも参酌し、これと被告人の検察官に対する各供述調書及び原審公判廷における詳細なる供述等により認められる本件犯行の動機、態様、犯行後の行動及び犯行前後に亘る心理、思考の推移、経過、犯行に対する道義的判断等を総合考察して、被告人は本件犯行当時は心神耗弱の状態ではなかつたとの心証を得たものと認められるから、原判決には被告人の責任能力に関する証拠調に欠けるところがあるとはいえず、更に第二鑑定を命じなかつたからといつて、これをもつて審理不尽の違法ありとすることはできない。尤も、当審において被告人の精神状態につき再鑑定を施行してはいるが、それは、事案の重大性にかんがみ、慎重の上にも慎重を期そうとする配慮に基くもので、敢えて原審に審理不尽ありとするものではない、所論は採用し難く、論旨は理由がない。
同第三点及び被告人の控訴の趣意について
所論は原判決の量刑不当を主張するのである。
よつて検討するに、本件は白昼都心において突如として行われた極めて残虐な殺人であり、まさに鬼畜の所為を思わしめるものがある。その動機は、放埓遊蕩の果ての物欲に出で、計画は綿密、陰険にして、しかも大胆である。被害者にはこれといつてとがむべき点は見当らないのであつて、被告人はさきにも被害者から金融を受けたことがあり、同人が警戒しないのに乗じて、これを誘い出したに過ぎないのである。一朝にして一家の支柱を失つた被害者の遺族の悲嘆と痛恨はいうに及ばず、犯行後長期間逃晦して、社会に与えた恐怖と不安は深甚である。まことにこの上もなく犯情重大であるといわなければならない。
他方、被告人は幼にして父を失い、母の手一つに、末つ子として、比較的我侭に育てられ、長じても適当な監督者や相談相手に欠け、加うるに生来多少分裂気質の傾向もあるところへ不幸にも愛人との間が破局的となつたため、自暴自棄に陥つて無軌道の放蕩に耽り、やがて本件の大事を企てるに至つたのである。今や被告人は深く過去を悔悟し、信仰により懺悔の境地に立ち到つたものの如くであり、漸く老いたる母はまた己にかえても被告人の刑の軽からんことをこいねがつている。これらに思い致せばまことに同情の念を禁じ得ないのである。
さりながら、被告人にとつて有利と認められる右各般の事情につき深甚な考慮を加えても、上記の犯情重大なるにかんがみれば、当裁判所としてもまた被告人に対し極刑を以て臨むのを相当とすると断ぜざるを得ないのである。すなわち原判決の量刑はこれを変更すべきではなく、論旨は採用することができない。
弁護人らの控訴の趣意第四点について
しかしながら、死刑執行方法としての絞首刑が、所論の瓦斯殺を含め、他の方法に比して人道上特に残虐であるとは認められず、従つて憲法第三十六条に違反しないことについては、つとに最高裁判所の判例の存するところであるから(昭和三十四年四月六日大法廷判決、昭和三十三年六月二十七日第二小法廷判決)、論旨は理由がない。
そこで刑事訴訟法第三百九十六条により本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用は同法第百八十一条第一項但書により被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決する。
検事沢井勉公判出席
(裁判長判事 長谷川成二 判事 多田貞治 判事 関重夫)